第一章 第二節

 青く晴れ渡った空。その下、地上よりは少し上。音留麻高校屋上。そのベンチに望は腰をかけている。

「いい天気だ……」

 熱くもなければ、寒くもない。丁度よい天気だ。秋とは言え、ここ数日、気温は極端に熱いか寒いかだったので、こんなに過ごしやすい日は久しぶりだ。久しぶり安らぎを覚えるの無理はないだろう。

 望はこの2週間、正直心安らぐことは無かった。周囲の異常な環境。そして、その原因である神代司。それらが彼にストレスを与えていたからだ。

 神代司が転校してきて、1週間。望の生活は以前と比べれば確実に変わっていた。何が変わったかと言えば、それは当然、学校での生活だ。この1週間のそれは、明らかに違う。

 まず、学校全体の空気だ。それは以前のものとは完全にかけ離れている。皆、常に神代司を意識していた。最初は変だとは思いつつも、転校してきたばかりだからと、納得していたが、それが2週間も続けばやはり異常だ。しかも、それはクラスメイトどころの話ではない。生徒はもちろん教師までもが神代司を見ているのだ。皆が天使のような姿の少年を常に意識し、羨望の眼差しを送る。それはあり得ない世界である。

 彼、神代司はそれは優れた少年だ。外見も美しければ、中身も完璧。完全無欠の存在と言って良いだろう。勉強に関してはまずこの校内でトップだ。何故なら、彼は既に大学を卒業しており、加えて博士号を3つも取っている。そんな彼がわざわざ日本のこの高校に来ている理由は誰も知らないし、知ろうともしない。ただ言えるのは教師を含むこの学校の人間は誰一人、彼に学力では勝てないと言うことだ。加えて運動神経も良い。体育の授業では、陸上を選択したが、そこでは次々と記録を更新していった。この時点で天才と呼ばれる人種だ。そこに加えてその内面も美しい。性格は穏やかで優しく、誰にでも分け隔て無く接し、礼儀作法も完璧。しかもそれでいて、しっかりと自分の意志を伝える意志の強さ持つ。それはもはや理想と呼ばれる存在だ。

 だが、それでも望は納得出来なかった。学校中の人間が騒ぐのは解る。皆が羨望の眼差しを送るのも解る。しかし、常に彼を意識するというのは、普通の、いや彼、夢想望の考えではあり得ない。神代司。皆が理想とする存在。望から見ればクラスメイト。クラスメイトから見てもクラスメイト。1年生から見れば先輩。2年生から見れば同学年。3年生から見れば後輩。教師から見れば生徒。それはつまり他人だ。そのたった1人の他人を常に意識し続けるというのは完全に異常のはずだ。しかし、現実はその『異常』がこの学校の大半をしめてしまっている。それは望が異常と考えることが、ここでは普通、つまり『正常』なのだ。そして、『異常』と考える望が『異常』という『異端』となる。最も望も人なりに処世術は持っているので、それを他人に言ったりはしない。しかし、この生活がストレスとなる。

 異常を異常と言えず、その中でその異常に合わせて生活する。これは苦痛以外の何物でもない。これがストレスの原因であり、変わったものの1つだ。

 そしてもう1つは望自身の変化、いや、『異常』だ。周りの人間のほとんどが神代に狂う中、望は望で、周りとは違う方向で神代司を意識していた。クラスメイトのほとんどが彼に羨望の眼差しを送る中、望も彼へあるの視線を向け続けていた。それは本人も良く理解していないが、恐らく『警戒』と呼ばれるものだろう。望は何故か不安だった。神代司がその存在が。彼の姿、動作、行動、声。その全てが何故か不安で不快に感じる。まさに『異常』と呼べる状態となっていた。

 救いがあるとすれば、僅かながらに望と同じように警戒している人間がいて、その中に幼なじみである紅璃と凪芭も含まれていることだ。最もあの2人はここ1週間妙な感じだ。2人そろってよくボーッしている。話しかけても上の空といった状態はざらだ。敬太は「きっと神代に恋をしたのさ〜」と軽く言っていたが、それだけは違うだろう。あの2人が神代を見るときの目は、望の警戒といったレベルとは桁違いのものだ。あれが何なのかは解らないが、少なくとも負の感情から来るものには違いない。言ってしまえばこれも『異常』だ。ちなみに神代が来る前にあれだけ騒いでいた敬太は、その宣言通り神代に対抗しようと熱意を燃やしている。さっきも教室で「僕こそアイドル〜」と、踊っていた。こいつだけは何の変化もない。とは言え、これは一部に過ぎない。大部分の人間はやはり彼の信者なのだ。

「………っ」

 望の顔が歪む。直視したくはない現実。しかし、それは認めなければならないことだ。

 周りが彼を優れた人間と認める中、自分はそれを認めるどころか、不快に感じている。それは恐らく『嫉妬』や『妬み』といった負の感情からきているとしか考えられない。

 望自身、これまで生きてきた人生は決して歪んだものでは無かったと、これまでは自負してきた。幼い頃に両親を亡くしはしたが、その後はそれこそ普通に生きてきたつもりだ。少なくとも、自分よりも優れている。というだけでここまで人を憎んだことはない。しかし、それも今は断言できなくなった。自分でもこの感情がなんなのかは解らないが、少なくともこれが良い感情でないということは解る。自分の『異常』と比べるなら、まだ神代に素直にあこがれている連中の『異常』がまだ良いとさえ思える。

「嫌になるな……」

 ワシャワシャ。

 そこまで考えて、望は頭を掻く。

 リラックスするために屋上に来たのに、いつの間にか思考はここ1週間のことを思い出し、気付けば自分の醜いところを突きつけられていた。これではストレス解消どころか増加だ。

「はぁ〜」

 大きく溜め息をつく。そして、空を見上げる。青く広がる空。果てのない空。そこはとても美しい。今の自分とは比べようがないほどに。

「………っ」

 美しいもの。それすらも今の望は無意識に比較の対象とし、そして自己嫌悪におちいる。それは果てしなく無意味だ。

「……やめた」

 望はゆっくりと立ち上がる。そもそもガラにもなく、屋上で青春気取りに空を見に来たのが間違いだったのだ。結局、1人になれば忘れるどころか、考えてしまう。しかし、その問いには答えはない。夢想望は神代司が嫌なのだ。そしてその理由は今のところ見つからない。となれば改善の余地など有りはしない。だから、今はこの現実をありのまま受け止めていく。それが答えだ。自分に出来るのはあまり深く考えず、自己嫌悪に陥らない様にしていくことだろう。

 そう望は決めると、大きく伸びをし、深く呼吸をする。それで少しは楽になれた気がした。

 ふと気付けば、長い時間ここにいた気がする。望は携帯をとりだし、時刻を確認する。

 14:39

 それが携帯に表示された時間だ。望がここに来たのが、2時過ぎだったことを考えると、以外と時間は経っていない。まあ、何もせずボーッとしていればこんなものなのかもしれないが。

「帰るか」

 望は携帯をしまうと、そのまま昇降口の方へと身体を向ける。正直、今は速く帰りたかった。せっかく授業をさぼったのだ。これ以上、時間を無駄にはしたくない。

 そう思いながら歩きだそうとした時、目の前の昇降口のドアが「ギーィッ……」と、金属の独特の重い音を立てて開く。そして、

「探しましたよ、夢想さん」

 と、今、1番会いたくない人物がこちらに、しかも、自分を探していたと、言いながら入ってきた。

「神代……」

 望の口から自然とそう零れる。目の前の笑顔の少年は、その笑顔のまま、こちらに近づいてきた。望の表情は見る見る強ばっていく。それは本人も解ってはいるが、どうにもならない。だから、

「何か用か?」

 と、短く必要最低限の言葉をぶっきらぼうに言う。これで気分を害して神代が帰ってくれれば、望としては助かるのだが、当の神代は特に気にした様子もなく、変わらぬ笑みをこちらに向けている。そして、その笑みのままこちらに話しかけてきた。

「ええ、あなたに聞きたいことがあって来ました」

「俺にか?」

 望は当然、それに思い当たる事はない。神代が授業をさぼってまで、自分に聞きに来るようなことは何も思いつかない。だから、

「何だ?」

 と、短く問う。こうしている間も望は神代を警戒し続けている。そして、それはとても気分が悪い。だからこそ早く終わらせるために、必要最低限の言葉で会話を進める。

 神代にその意図が伝わったかどうかは解らないが、彼も長話をする気はないのか、すぐに切り出してきた。

「あなたに白風さん達のことを聞きに来ました」

「え?」

 予想もしなかった名が出たことに、望は間抜けな声を上げる。まあ、確かに望は2人と幼なじみだ。これまでも2人にアタックしようとした連中が聞きに来たことはあった。しかし、神代がそれを聞きに来るとは予想もしなかった。実際、あの2人が自分の『警戒』を越える何かを含んだ視線を向けているとうの本人が来るなんて、思考が結びつかない。

「だからあの2人のことを教えてください」

 神代はそれを望が理解できなかったと判断したのか、もう一度、言い方を変えて言ってきた。それに腹が立った。だから、望は彼の望み通り答えてやる。

「白風紅璃と白風凪芭。双子の姉妹で俺達のクラスメイト。紅璃が姉で凪芭が妹。2人とも美人で評判だ。姉は性格がかなり曲がっていて、妹は多少天然な所もあるが、基本的にまあ、2人とも基本的に善人だ。趣味は紅璃がネットサーフィンとショッピング。凪芭は料理と読書。と、これで良いか?」

 とりあえず思いつく限り言ってやった。どうせ実ることがないと解っている想いだと、いう俺自身の思いを込めて。神代はそれに驚いていたが、すぐに、

「……詳しいんですね」

 と、素直に感想を漏らす。俺はそれに、

「そう思ったから、俺に聞きに来たんだろう?」

 と、言ってやる。神代は「まあ、そうなんですけど……」と、困ったような(実際、困っているんだろう)表情を浮かべる。が、それもすぐに消え神代は本題に入ってきた。

「夢想さん、僕が聞きたいのはそう言う事じゃないんです。僕が聞きたいのは彼女たちが昔からここに住んでいたか。と、いうことなんです」

「? どういう意味だ?」

 望は今度こそその意味が解らず、問い返す。神代もそれに自然に返してくる。

「いえ、だから言葉通りです。彼女たちは昔から音留麻市に住んでいたんですか?」

 真剣に聞いてくる神代。望は主旨を理解できず戸惑いながらも、それに答えてやる。

「……ああ、あいつらは昔から音留麻に住んでるよ」

 それは音留麻に住む者なら、疑いようの無い事だった。白風家は昔から、ここ音留麻で有名な名家だ。そして、その名家の生まれの2人は当然、この街で生まれ育ったのだ。加えて、幼い頃から望(と、いっても1人子だが)はあの2人とは幼なじみだ。その事実がそのまま彼女たちがここで生まれ育ったことの証拠となる。

「……そうですか」

 ここに神代司が転校2週間。今日、初めてその笑顔と声が曇るのを見た。どうやらこの事実は彼の求めていたものではなかったらしい。とは言え事実だ。これは仕方ない。まあ、嘘をついて喜ばせるよりはよっぽど良いだろう。

「で、何でまた、そんなことを聞くんだ?」

 望は今だ主旨が理解できない問いの意味を聞く。神代を良く思っていないとはいえ、気になるものは気になる。神代は曇った表情のまま静かに答えてくる。

「実は昔、僕がイギリスに住んでいたときに、近所に彼女達とよく似た人達が住んでたんです。だから、もしかしてと思って……」

「そうか……」

 つまり昔の知人と似ていたから、気になったということか。最も神代の表情から見て、ただ知人では無かったのだろうが。何故か気に入らない奴ではある。しかし、流石に哀れだ。だから、言ってやる。

「一応、言っとくと、あいつらは海外旅行の経験も無いぞ」

 可哀想そうではあるが変な希望を持たないように、そしてストーカーにならないようにあえて補足する。しかし、当の神代はもはやそれには興味もないような面もちで、

「解りました」

 と、返すだけだった。

 ここで屋上から2人の声が途絶える。それはつまり2人の間にすでに交わす言葉は無いということだ。そして用を終えた神代は望に軽く礼をし、

「ありがとうございました。僕はもう行きます」

 と、望に背を向けて昇降口へと歩いていく。

 望は「ああ、じゃあな」と、言葉だけで送ってやる。

 屋上にただ1人、残った望はふと空を仰ぐ。先程まで青く広がっていた世界は、いつの間にか黒い雲に閉ざされていた。

 ◆◇◆◇◆

 バタン。

 バタン。

 『私』は部屋のドアを閉めると、鞄をベッドに投げやる。それは『私』が今まで繰り返してきた日常だ。

 『私』は部屋のドアを閉めると、鞄を静かに机に置く。それは『私』が今まで繰り返してきた日常。

 これが昨日までならベッドに寝ながら、ビデオでも見る所だ。でも、そういった『過去』の『日常』をこれからの『私』が営むことはない。何故ならそれは終わってしまったから。例えこれから先、『日常』と呼べるものが『私』に訪れるとしてもそれは、昨日までのものとは絶対に違うだろう。

 これが昨日までならすぐに着替えて、本を読み始める所だ。でも、それはすでに『過去』の『日常』になっている。だから『私』がそこに戻ることはない。何故ならそれが終わりを告げたから。例えこれから先、『日常』と呼べるものが『私』に始まっても、それは昨日までのものと同じであることはないだろう。

 終わりが来るのは知っていた。ただ忘れていただけ。だから仕方ない。ただ、それを思い出させたあいつは許さない。憎い。殺したい。

 終わりが来るのは解っていた。ただ忘れていただけ。だから諦める。ただ、それを思い出させたは許さない。憎い。殺したい。

 憎しみが広がる。だけど今はそれを押さえる。どうせすぐに殺すことになるだろう。多分あいつは敵だから。

 憎しみが広がる。だけど今はそれを押さえる。どうせ近い内に殺すことになるだろう。おそらく彼は敵だから。

 だから『私』はこれまでの『日常(それ)』に別れを告げるため、ペンを手に取る。

 だから『私』はこれまでの『日常(それ)』に別れを告げるため、ペンを手に取る。

 これまでの17年間に別れを告げるために。書くべき手紙は4通。家族、友人、幼なじみ。そして『妹』。

 これまでの17年間に別れを告げるために。書くべき手紙は4通。家族、友人、幼なじみ。そして『姉』。

 書くべき事は決まっている。この17年間の感謝、想い、そして別れ。ペンは進んでいく。

 書くべき事は解っている。この17年間の感謝、想い、そして別れ。ペンは進んでいく。

 ◆◇◆◇◆

 望が屋上で神代と別れて約3時間。空には既に太陽は無く、帰路を急ぐ望の周囲も既に闇夜に包まれ始めている。この季節は日が暮れるのが早い。最もこれが秋から冬となればそれはもっと早くなるのだが。

 時刻はやがて6時になろうとしている。いつもの望ならとっくに家でのんびりしている時間だ。しかし、今はまだこうして道を歩いている。望は神代と別れた後、教室には戻らずそのままアーケード街にまで1人、気晴らしに行ったのだ。

 彼が向かったのはゲームセンター『レオ』。そしてその目的は店に入ったばかりの新作の格闘ゲーム『運命の騎士』だった。久しぶりのゲームセンター。そして新作ゲーム。それは望の予定では良い気晴らしになるはずだった。が、現実はそれどころか、よりストレスが溜まる結果となった。その原因はまあ様々だ。学校さぼってまで来たにもかかわらず、すでに自分と同類と思われる連中が目的のゲームの周りにたかっていたことや、ようやく順番が回ってきたと思ったら、対戦相手にあっという間にやられたことや、この悔しさを語ろうにも知り合いが誰もいなかったこと等が上げられる。

 結局、望は目当ての新作ゲームをたった1回で諦め、その後はクレーンゲームでただひたすら、景品を取りまくった。その結果、彼の手には『レオ』で一番大きなビニール袋が下げられており、その中には戦利品として、たくさんのぬいぐるみやフィギュアといったものがめいっぱい詰められている。最もその中で彼が欲しかったのは『運命の騎士』のキャラフィギュアだけなのだが。

(ぬいぐるみは紅璃と凪芭にでもやるか……)

 望がそんなことを考えつつ歩いていると、いつの間にか住宅街への入り口の交差点にまで来ていた。ここから家までは数分と言った距離だ。望は自宅までの最後の信号を仕方なく待つ。正直、ここの信号は長いので嫌なのだが、それを無視できるほど交通量は少なくない。

「寒い……」

 望は秋風の冷たさに耐えながら信号を待つ。そんな寒さの中、望はふと、向こう岸に見覚えのある人影に気付く。

「あいつら……」

 向こう岸で信号待ちをしている2人の姉妹――紅璃と凪芭だ。紅璃は黒のジャケットに赤のミニスカート。そして、黒のニーソックス。凪芭は白のセーターにジーパン。と、2人とも私服姿だ。

 2人は望に気付いていないようで、特に反応もない。

「ちょうどいいか」

 望は手に持った袋から自分用の物を鞄に移す。これでゲーセン袋の中は要らない物ばかりだ。後は信号が青になったら2人にこの袋ごと押しつければ、荷物は減る。

 そして信号は青になる。望はそれを早足で渡ると、今だ自分に気付いていない2人に後ろから声をかける。

「よお、今、帰りか?」

 2人は望の声に足を止め、静かに振り返る。自然なはずのその動作。しかし、何故かそれに望は違和感を覚える。

(え……?)

 その違和感に『人違いだったか?』と、思ったが、振り向いた2人はやはり紛れもなく紅璃と凪芭だった。ただ、

「望……」

「望さん……」

 と、その声、表情共に暗い。

「どうしたんだ、2人とも? 何かあったのか?」

「……何もないわよ、ねえ凪芭?」

「ええ、姉さん……」

 答えてきた2人の声はどう考えても、何もなかったというの声ではない。だから、当然納得できるはずもなく、望は食い下がろうとするが、

「それより望」

 と、それよりも早く紅璃のその澄んだ声に呼ばれる。

 静かに透き通る声。ただそれだけの事に望は違和感を覚え、さらに気圧される。だから、彼女の声に自然に答える。

「……何だ?」

 こう答えた時点で、会話の主導権は完全に2人が持つことになった。そして、紅璃が聞いてくる。

「あなたこそ何処に行ってたの?」

「へ?」

 静かでどこか威圧的な空気の中で聞かれたことがそれだった。望はその空気に合わない問いを、一瞬、理解できずに間抜けな声を上げる。しかし、そんな望の声を無視し、自然な流れのように凪芭も続けてくる。

「そうですよ。今家の方に行ってきたんですよ。私達」

「え? そうなのか?」

「ええ」

 確かに考えてみれば、2人の家はここより少し離れている。2人がこの辺りに来る用事があるとすれば夢想家ぐらいなものだろう。最も、その用事は思いつきもしないが。

 望は素直に、そして恐る恐る2人に問う。

「……何か約束してたか?」

「いえ、約束はしてませんでしたけど……」

「用事はあったわ」

「そうか……」

 どうやらこちらに非は無いようだ。そこに安堵する。そして、改めて望は用件を問う。

「で、用事ってのは何だ?」

 ただそれだけの言葉。だが、何故か2人は「クスッ」と静かに笑う。

「それはもう良いわ。今、済んだから。ねえ、凪芭?」

「はい……」

 笑顔の2人。それがどこか少し寂しげに見えたような気がする。しかし、それは気付いてはいけないような気がした。だから望はそれに気付かないフリをして会話を続ける。

「そうか……」

 いつもと違う空気。それに望は息苦しさを覚える。だから、それをうち破るためにでかいぬいぐるみの入った袋を2人に渡す。

「あ、そうだこれ」

 受け取った紅璃はキョトンとした表情を浮かべる。そして、理解できないのか、

「……何これ?」

 と、聞いてくる。だから、望はそれにありのまま答えてやる。

「ぬいぐるみだ。今日、昼から学校サボってゲーセンに行って来たんだ。それでいろいろ取ったんだけど、取りすぎたから2人にやるよ」

 何気ない言葉。そして、ほんの気まぐれのプレゼント。ただそれだけのことだ。それなのに紅璃と凪芭の顔は明らかに曇る。

「………っ」

「………」

 彼女たちの表情は明らかに暗い。それには気付いた。が、やはりそれには気付いてはいけない気がする。だから、

「紅璃? 凪芭?」

 と、名を呼ぶ。

「いえ、何でもないです……」

「ありがとう。貰っておくわ」

 答えてくる2人の笑顔は明らかに創られたものだ。そして、それが解るから問わず、短く返す。

「ああ……」

 望が次の言葉を探そうとすると、紅璃が静かに言ってくる。

「じゃあ、私達もう行くから……」

 会話はここで終わる。そして2人は望に背を向け、足早に去っていく。望はそんな2人の後ろ姿に、

「ん、解った。またな」

 と、『日常(いつも)』の挨拶を送る。

 そして、紅璃と凪芭はそれに別れを告げる。

「サヨナラ」

「さようなら」

 2人のその言葉の本当の意味に望が気付くのは、もう少し後のこととなる。

 ◆◇◆◇◆

「はあっ、はあっ、はあっ」

 雨が降る夜の街。その暗闇の中、望は傘も差さず走っている。服が雨を吸い込みそれを纏う身体は重い。特に上下ジーンズとなると、その重さは結構なものだ。それでも彼は走り続けていた。が、やがてそのスピードも落ちる。それも当然だろう。なぜなら彼の足は休息を、肺は酸素を、喉は水分をそれぞれ求めている。だから彼が明かりを放つ自販機の前で足を止めたのは仕方のないことだろう。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 望は息も切れ切れに、自販機にもたれかかる。そうすることで多少は楽になった気がした。

 呼吸が落ち着いてきた所で望は携帯を取り出す。画面に表示された時刻は20:00。望が家を出て約1時間経っていた。そして、携帯には何の連絡も来ていない。つまり、まだ、何の進展も無いということだろう。ここ3日間、毎日これを繰り返している。

「あいつら、何処に行ったんだ……」

 望はこの夜のランニングの原因となった2人の何処にいるかも解らない少女――紅璃と凪芭に愚痴る。

 事の始まりは3日前の夢想家からだった。学校をさぼりゲームセンターにいったあの日、望は帰宅中に白風姉妹と出会い、そこでぬいぐるみを2人に渡した。そして別れたあと、程なくして望は家に帰り着いた。彼はそのままいつも通り2階の自室に上がると、机に鞄を置こうとした。その時、それが目に入った。机に並ぶ2通の封筒。それは少なくとも、今朝まではそこには無かった物だ。その2通の封筒の上に書かれた宛名は夢想望、彼の名だった。望はそれを手に取り、中に目を通した。読み終わるのに時間はかからなかった。2通の手紙の内容それぞれ『もう2度と会えない』と別れを告げるもの。そこに理由は書かれていない。違いがあるとすればその文面と差出人だ。一通は紅璃から、そしてもう一通は凪芭からだった。

 望が部屋を駆けだそうとした時、彼の携帯が鳴った。電話は白風姉妹の父、白風醍醐から、そして、その内容は紅璃と凪芭が家でしたというもので、夢想家に来てないかと、予想通りのものだった。だから、ありのままの事を望は醍醐に伝えた。ついさっき、家の近くで会ったこと、今手紙を読んだこと、そして、今から探しに行こうとしていたことを。

 それらを聞き終えた醍醐は望に頼むと、一言だけ告げ、彼も夜の街に2人を探しに行った。

 と、以上が3日前の出来事で、ここ3日間、望が街を走り続けている理由だ。つまり、今だ2人は見つかっていない。

「よっと」

 呼吸が整ったところで望は自販機から身体を起こす。そして、ポケットから小銭を取り出すと、コーヒーを一本買う。それはまあ、背もたれになってくれた自販機への礼だ。もっともずぶぬれの身体を暖めるのに必要な物でもあるが。

 歩きだそうとしたその時、雨が先程よりも強くなったことに望は気付いた。それはもう豪雨と言って良いだろう。流石にその中を走り回る気にはなれない。

「今日は切り上げるか……」

 望は家へと走り出した。

                                                                                   第一章第三節へ